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集合住宅博物館 |
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LAST UPDATE 2006.10.10 |
■集合住宅の計画史
集合住宅の計画史 年表 PDFファイル
■新しい集合住宅の歴史
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ロンドン、パリ、ベルリン、ニューヨーク
はじめに(これまでの歴史)
世界の集合住宅史で私たちが学んできたものは次のようなものであろう。といっても大学の授業で集合住宅の歴史が取り上げられるのは稀であるから、現在市販されている学術書の中で、触れられてきているものの内容である。
これらは、企業主などによる労働者向け住宅地と、モダニストたちの提案に特化される。●ロンドン・・・・・ソルテイア(ソールト, 1863)、ガーデンシティ(ハワード, 1898)
レッチワース(1903)、バウンダリーストリート(LCC)
●パリ・・・・・パリ改造(オースマン, 1858)、ファミリステール(ゴダン, 1859)
工業都市(ガルニエ, 1917)、ル・コルビュジェ
●ベルリン・・・・・ヴァイセンホーフ・ジードルング(ミースほか, 1927)、
ブリッツ・ジードルング(ブルーノ・タウト, 1930)
●ニューヨーク・・・・・ラドバーン(スタイン, 1924)、近隣住区論(ペリー, 1929)その他の都市では、ウィーンのカールマルクス・ホフ(カール・エーン, 1927)、アムステルダムのデ・ダヘラート(デ・クラーク, 1923)など。
これらのキーワードについては、他書で様々に紹介されているので、そちらを参照してほしい。このコーナーで紹介するのは、都市人口爆発による住環境の劣悪化を少なからず救った先達とその集合住宅の歴史である。彼らは、コルビュジェやタウトのような近代建築(インターナショナルスタイル)の強すぎる影響によって、決して歴史の表舞台にはのぼることはなかったが、各都市で同時期に、同じコンセプトをもつ非常に興味深い計画を残している。キーワードは「オープンコート」である。
都市人口爆発の時代
欧米の諸都市に人口が集中したのは、産業革命以降の18世紀後半からである。イギリスで起こった産業革命は、世界中の各都市に飛び火し、地方から都市に職を求めて来た人々を都市は無条件に受け入れた。地主は、土地と住宅からの利潤を求め、その結果、建物は建て詰まり居住環境は悪化していったわけである。窓のない部屋に10人が寝起きをともにするというのも珍しくはなく、建て詰まった結果、通風、採光も得られず、コレラやペストなどの伝染病の温床となっていた。
住環境改善のさまざまな動き
集合住宅計画は衛生問題に置き換えられ、住環境を向上させるための住棟形式の模索が行われていた。十分な日照と通風をとることが重要な命題とされ、各都市に共通した形式は中庭を街路に向かって開く開放中庭型の集合住宅となっていった。時期は1900から1930年にかけてのことである。ロンドンの「オープンコート」、ベルリンの「ストラッセン・ホフ(Sutrassenhofe)」、パリの「クール・ウベール(cours ouvertes)」、ニューヨークの「Uシェイプ(U-Shape)」である。
この博物館では、これらの各都市の開放中庭成立の背景と計画原理を徐々に明らかにしていきたいと思う。
そして....
インターナショナルへ
1920から1930年にかけては、グロピウスやコルビジェの板状集合住宅による住宅地計画の提案、アテネ憲章による衛生・美学・機能上の根拠により、中高層板状集合住宅が、住宅地計画の理念の中心になり、「旧来の街区の全面的な改造」をやめ、「各住宅に同等によりよい通風と、良好な日照を確保する」という平行配置の住棟が、国際様式として日本をはじめ国際的に普及していった。
再び街区型へ
1970年代には、形式上の逆行現象が起こり、ヨーロッパ諸都市に個々の建築家が提案した中庭型集合住宅が新しい指導的な形式になる。中高層板状集合住宅の形式をとらず、再び中庭を囲み、歩行者専用道路で縁取り、再び自動車が通る街路と境を接して配置されるようになる。このような変化の原因は、単なる流行や近代の思想によるものではなく、むしろ発達した自動車による騒音や、その他さまざまな住環境への悪条件の出現に対する処理という現実的な考え方、都市の歴史的要素の回復とヒューマンな住宅地形成の志向によっている。
特にIBA(国際建築展覧会, 1987, ベルリン)での大々的な街区型集合住宅あるいは中庭型集合住宅の採用は、理念の変革が企図され、その成果は、街区型集合住宅形式が今後の期待される住宅形式としてとりあげられていることを示している。
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何事にも始まりがあります。例えば「階段」です。階段が発明された結果、建物は縦方向に重なっていきました。エレベーターの発明でそれは加速されました。ただ、いつ?、だれが?は、それほど明確ではありません。
このコーナーでは、集合住宅の要素がそれぞれいつ、だれが、どんな理由で発明したかを解説します。
■光庭(ライトウェル)...1904年 ゲスナー(ドイツ)
19世紀の産業革命によって、欧米の諸都市に人口が流入し、増築を繰り返し街区がどんどん建て詰まっていく。それにともない中庭の規模もどんどん縮小され、結果として光庭程度の大きさの中庭ができてくる。しかしこれは計画の産物ではない。
計画してつくられた「光庭」は、ドイツの建築家ゲスナーの発明とする。ゲスナーは、オウエル(サクソニー)で生まれ、ドレスデンとベルリンで建築を学んだ理論家であり実践的な建築家である。1897に自分の事務所を構えるまでに、アルフレッド・メッセルらの事務所で修行していた。
彼は、平面計画の理論的な分析をおこない、光庭とそれを囲む部屋の構成の最適解を生み出した。光庭は、小さなホールと玄関をもつ暗い廊下をなくしたばかりでなく、それまで縦に並んでいた居間と寝室の関係を機能的に配列することを可能にしている。
1904年のモンセンシュトラーセ、1905年のニーズアシュトラーセの住棟に「光庭」がみられ、階段室とホールを明るくし、住戸を開放的にしたかを示す優れた例となっている。